file No.24
「ビフォア・ザ・レイン」
1998.1.9
監督、脚本:ミルチョ・マンチェフスキー
撮影:マニュエル・テラン
音楽:アナスタシア
出演:カトリン・カートリッジ,レード・セルベッジア,グレゴワール・コラン,ラビナ・ミテフスカ 

なぜか清々しい余韻がある。人が死ぬのにだ。重苦しさはあまり感じられない。不思議である。
旧ユーゴスラビアの物語であるこの作品は民族紛争の悲劇が描かれている。しかし、当事国出身のこの監督はその悲劇を押し付けがましい反戦映画としては描いていない。旧ユーゴの人々を取り巻く環境を、政治的な説明なしに淡々と丹念に描写している。作品は声を大にしては語っていないのだ。

「旧ユーゴの悲劇」「当事国の監督」といえばエミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」がある。作品のタッチは違うのだが、その表現手段が共通しているように思える。どちらも正攻法で描いた政治ドラマではないのだ。

「アンダーグラウンド」はバカバカしいくらいのスラップスティック・コメディー調で「喜劇」を逆手にとり「悲劇」を伝えていた。この作品は3部形式のオムニバス形式で、しかも「血縁」「村」という比較的狭い世界での「悲劇」を叙情的に表現している。

また、叙情的で静かなである反面、映画的興奮を覚える構成がこの作品の魅力でもある。
 第1話、第2話、第3話とが永久連鎖的に繋げられており、時間をも超越しているのだ。

ストーリーが忠実な時間軸によって構成されていたならば、非常に重苦しく「救いようの無い悲惨」を背負い込んだ作品になっていただろう。それが、構成の巧みさにより全く逆の印象を残すことに成功している。清々しいと言うと語弊があると思うが、物語の内容からするとそう感じずにいられない。

 しかし、「メビュウスの輪」のごとく永久にリンクした物語であるから、繰り返されるという側面をも持ちあわせている。この「村」だけの話ではないのだ。隣人が「500年来の敵」に変わってしまった人々は少なくは無いはずである。そんな、哀しさや憤りが伝わってくる。

観ている者は第3話で第1話に登場した少女が再び姿を現すと、ハッとする。「なぜ」という感覚とその笑顔に驚くはずである。おびえた野良猫のような彼女を見ていた私達は、その爛漫さに安堵を覚えると同時に「悲壮感」にとらわれるのだ。

この作品には印象に残る場面がいくつもあるのだが、そのひとつに「夜空」がある。第1話で出てくる夜空は「おとぎばなし」のようにひたすら奇麗であり、その夜空をバックに修道士達が並んで丘を歩いていくシーンなどは、まさに「詩」の世界である。旧ユーゴの人々にとって、思い出される平和な時代の「夜空」であったに違いない。
 

shima-s@fka.att.ne.jp
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